2012年08月22日
8月19日 歴史ウォーク・首里はたらく レポートその2
8月19日(日)開催
「歴史ウォーク in 首里 首里王府のシゴト場めぐり」
レポートその2
レポートその2では授業で訪れた場所を紹介します。
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首里王府時代の町を「はたらく」観点を交えて散策する今回の授業。どのような授業になるのかワクワクです。
集合場所は、県立芸大前にある当蔵(とうのくら)バス停。
芸大らしく大きな土の焼き物のオブジェがあります。
うちな~タイムはどこへやら?!みなさん時間通りに集合してくれました。
ありがとうございます!
ニラ大の説明の後、喜納先生の紹介。
帽子の似合うおしゃれな先生です。
さっそくウォーキングスタート。
まずは県立芸大の門へ向かって歩きます。
今回の授業の面白いところは、首里王府時代にどのような仕事があり、どのような人が働いていたか、どれくらい給料をもらっていたか、という内容も含まれていること。歴史ある建物、場所を見るだけでなく、そこにいた人々のはたらく姿を想像すると、歴史がよりリアルに感じられます。
芸大の門のすぐそばにあるのが「貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ」。この場所に芸術大学が建てられたのは、かつてここで漆器の形態、図案に関する部署があったことが関係するのかな?
貝摺奉行所を過ぎると、「高所(たかじょ)」、税(お米など)に関する業務をする部署があります。
弁財天堂のすぐ近く、小さな丘のようになっているところが、士族の子弟が通った琉球王国最高の学府「国学」のあった場所。この道を駆け上がっていく若い学生達の姿がみえてきそうです。
さすが夏の沖縄、日差しが強い!
けれど、青い空、深い緑が本当に綺麗です。
観光で有名な首里城にやってきました。授業では有料エリアには入りません。
まず「歓会門(かんかいもん)」。門番は百姓がつく仕事であったが、士族の就職難で雇用対策として士族の仕事に。なんだか現代の雇用対策と似ているような。。。
次に「漏刻門(ろうこくもん)」。門の内部に水時計(漏刻)があり、時間を計っていた部署。へんな名前だな~と思っていたので、説明をきいて、そんな大切な場所だったのか知り驚きました。
門をくぐって首里城のすぐ横まで来ました。
日陰のあるところで休みながら説明を聞きます。広福門の左側が「大与座(おおくみざ)」で戸籍に関する業務をする部署、右側が「寺社座(じしゃざ)」で寺院や神社、祭祀に関する業務をする部署。
首里城北殿(ほくでん)は「評定所」という王府の政治の最高機関があったところ。
摂政(しっしー)は王様にアドバイスする人で、王子クラスの人がつく役職。さすが、給料もケタが違います。その下の三司官(さんしかん)は親方(うぇーかた)クラスがつきます。面白いことに、実際に政治を動かす三司官のほうが摂政よりも給料が高い。王子よりも身分が下でも要職の人には高い給料を払う、これはいいルールだなと思いました。
この他に
「納殿(なでん)」 薬、茶、煙草を出納する部署、
「系図座(けいずざ)」士族の家譜の管理、歴史書の編集をする部署、
「用物座(ようものざ)」反物の収入に関する部署、
「銭蔵(ぜにぐら)」納税された税の計算、御用酒の出納をする部署
があります。
首里城は王様の住居という以外に、政治が行われ、役所があり、たくさんの役人が出入りしていた場所なんですね。首里城のイメージが煌びやかな王族の世界というよりも、厳粛な雰囲気が漂う一国の政治の舞台に変わっていきます。
ここからは首里城の外へ向かい、城壁の横の道を歩きます。
暑いけれど、景色はとっても綺麗です。
民家のある路地にでました。こんなところにも寺院跡があります。かつて首里城の周りにはたくさんの寺院があったそうで、今の京都のような雰囲気だったのかもしれません。
城壁の横を通ってきたせいか、ワープしたのではないか?!と思うくらいあっと言う間に鳥堀交差点につきました。
上の毛(いーぬもー)公園の前に石碑があり、弁ヶ岳という拝所への参道を整備したことが書いてあります。せっかくだから、ここにあるバス停の名称も上の毛にすればいいのにね~という先生。地域の歴史を伝える名称を残すって大事ですね。
交差点を渡ると首里中学校があります。ここにはかつて「聞得大君御殿(きこえおおぎみうどぅん)」、王国の最高神女の屋敷があった場所。王女・王妃・王母ランクの人がつく役職ということで給料は摂政、三司官並み、またはそれ以上です。琉球王府が神への祈りを大切にしていたこと、また、母などの女性を大切にする文化がここにも表れているような気がしました。
最後は「汀志良次村学校所(てしらじむらがっこうじょ)」、士族の子供たちが通う初等教育機関があった場所です。ここには教員は配置されず年長者が後輩を教えたということ。
ここで先生が児童向け中国古典の一文を教えてくれます。
人之初 性本善
性相近 習相遠
人が生をうけたはじめ、性格はもともと善である。本性は相似かよっているものの、習慣によって遠く隔たってしまう。
深い~
昔も今も子供達に良い人間になってほしいと願い、教えるのは一緒なのかなと思いました。
授業の最後は記念撮影。慣れ親しんだ首里の町の遠い歴史が、その頃の人々の社会やはたらく姿をイメージして、より近く感じられた授業でした。
レポート: ちえ
「歴史ウォーク in 首里 首里王府のシゴト場めぐり」
レポートその2
レポートその2では授業で訪れた場所を紹介します。
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首里王府時代の町を「はたらく」観点を交えて散策する今回の授業。どのような授業になるのかワクワクです。
集合場所は、県立芸大前にある当蔵(とうのくら)バス停。
芸大らしく大きな土の焼き物のオブジェがあります。
うちな~タイムはどこへやら?!みなさん時間通りに集合してくれました。
ありがとうございます!
ニラ大の説明の後、喜納先生の紹介。
帽子の似合うおしゃれな先生です。
さっそくウォーキングスタート。
まずは県立芸大の門へ向かって歩きます。
今回の授業の面白いところは、首里王府時代にどのような仕事があり、どのような人が働いていたか、どれくらい給料をもらっていたか、という内容も含まれていること。歴史ある建物、場所を見るだけでなく、そこにいた人々のはたらく姿を想像すると、歴史がよりリアルに感じられます。
芸大の門のすぐそばにあるのが「貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ」。この場所に芸術大学が建てられたのは、かつてここで漆器の形態、図案に関する部署があったことが関係するのかな?
貝摺奉行所を過ぎると、「高所(たかじょ)」、税(お米など)に関する業務をする部署があります。
弁財天堂のすぐ近く、小さな丘のようになっているところが、士族の子弟が通った琉球王国最高の学府「国学」のあった場所。この道を駆け上がっていく若い学生達の姿がみえてきそうです。
さすが夏の沖縄、日差しが強い!
けれど、青い空、深い緑が本当に綺麗です。
観光で有名な首里城にやってきました。授業では有料エリアには入りません。
まず「歓会門(かんかいもん)」。門番は百姓がつく仕事であったが、士族の就職難で雇用対策として士族の仕事に。なんだか現代の雇用対策と似ているような。。。
次に「漏刻門(ろうこくもん)」。門の内部に水時計(漏刻)があり、時間を計っていた部署。へんな名前だな~と思っていたので、説明をきいて、そんな大切な場所だったのか知り驚きました。
門をくぐって首里城のすぐ横まで来ました。
日陰のあるところで休みながら説明を聞きます。広福門の左側が「大与座(おおくみざ)」で戸籍に関する業務をする部署、右側が「寺社座(じしゃざ)」で寺院や神社、祭祀に関する業務をする部署。
首里城北殿(ほくでん)は「評定所」という王府の政治の最高機関があったところ。
摂政(しっしー)は王様にアドバイスする人で、王子クラスの人がつく役職。さすが、給料もケタが違います。その下の三司官(さんしかん)は親方(うぇーかた)クラスがつきます。面白いことに、実際に政治を動かす三司官のほうが摂政よりも給料が高い。王子よりも身分が下でも要職の人には高い給料を払う、これはいいルールだなと思いました。
この他に
「納殿(なでん)」 薬、茶、煙草を出納する部署、
「系図座(けいずざ)」士族の家譜の管理、歴史書の編集をする部署、
「用物座(ようものざ)」反物の収入に関する部署、
「銭蔵(ぜにぐら)」納税された税の計算、御用酒の出納をする部署
があります。
首里城は王様の住居という以外に、政治が行われ、役所があり、たくさんの役人が出入りしていた場所なんですね。首里城のイメージが煌びやかな王族の世界というよりも、厳粛な雰囲気が漂う一国の政治の舞台に変わっていきます。
ここからは首里城の外へ向かい、城壁の横の道を歩きます。
暑いけれど、景色はとっても綺麗です。
民家のある路地にでました。こんなところにも寺院跡があります。かつて首里城の周りにはたくさんの寺院があったそうで、今の京都のような雰囲気だったのかもしれません。
城壁の横を通ってきたせいか、ワープしたのではないか?!と思うくらいあっと言う間に鳥堀交差点につきました。
上の毛(いーぬもー)公園の前に石碑があり、弁ヶ岳という拝所への参道を整備したことが書いてあります。せっかくだから、ここにあるバス停の名称も上の毛にすればいいのにね~という先生。地域の歴史を伝える名称を残すって大事ですね。
交差点を渡ると首里中学校があります。ここにはかつて「聞得大君御殿(きこえおおぎみうどぅん)」、王国の最高神女の屋敷があった場所。王女・王妃・王母ランクの人がつく役職ということで給料は摂政、三司官並み、またはそれ以上です。琉球王府が神への祈りを大切にしていたこと、また、母などの女性を大切にする文化がここにも表れているような気がしました。
最後は「汀志良次村学校所(てしらじむらがっこうじょ)」、士族の子供たちが通う初等教育機関があった場所です。ここには教員は配置されず年長者が後輩を教えたということ。
ここで先生が児童向け中国古典の一文を教えてくれます。
人之初 性本善
性相近 習相遠
人が生をうけたはじめ、性格はもともと善である。本性は相似かよっているものの、習慣によって遠く隔たってしまう。
深い~
昔も今も子供達に良い人間になってほしいと願い、教えるのは一緒なのかなと思いました。
授業の最後は記念撮影。慣れ親しんだ首里の町の遠い歴史が、その頃の人々の社会やはたらく姿をイメージして、より近く感じられた授業でした。
レポート: ちえ
Posted by 琉球ニライ大学 at 23:10│Comments(0)
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